「まよなかの散歩」     作者 ふちりん


 面倒くさい。散歩に行くのが、とても面倒くさいのである。
 タロウは室内犬だ。我が家だって決して狭くはない。マンションではあるが、むしろ広いほうだ。わざわざ散歩などしなくても、運動は確保できていると思うのだ。
 ただ、広いと言っても、金持ちなわけではない。中の上といったところだ。私は、もっと金持ちの家に生まれたかったと切に思う。庭が広くて、外国の洋館みたいな豪奢なお屋敷だったらどんなに良かっただろう。室内で飼うにしても、外で飼うにしても、リードを持ってわざわざ散歩に付き合わなくてもいいのだ。なんて素敵な犬飼い環境かしら。
「おい! モトコ! さっさと散歩に行け! タロウが可哀想だろう!」
 お父さんが雷みたいな声で怒鳴った。嫌だ嫌だ、犬の散歩ごときで、そんなに感情を発奮させるなんて、何か間違ってるのじゃないか。犬を飼うってことは「癒し」であるって、TVで偉い大学教授か誰かが言っていたじゃない。もっと気持ちを豊かにできないのだろうか。犬を飼ってストレス溜めるなんて本末転倒である。
 私は、コタツに半身埋まりながら、右目でTVを見て、左目でお父さんを見ようとしながら、「すぐ行くよ、すぐにね」なんて、気のない返事をして、激情を振り回すお父さんをあしらう。
「お姉ちゃん、タロウの散歩、行ってきてよ」
 私の反対側からコタツに足を突っ込んでいるお姉ちゃんに、私は猫なで声で懇願した。こんなかわいい声、私、出せるんだなって、自分でも驚いた。
「嫌よ。散歩はあんたの仕事でしょ。それに、私は受験で忙しいの」
 なんて、私の目も見ずに言うお姉ちゃんは、TVに映る松っちゃんと浜ちゃんの軽妙なトークを、今にも噴出しそうにして眺め、年頃の女の子としてはみっともないような半笑いを常にキープしている。
 はて、いつからタロウの散歩は私の仕事になったのだろうか。私は志願した覚えはまったくない。散歩っていうのは、家族持ち回りで、順ぐり順ぐりに、平等に、そう平等にだ、担当されなければならないはずである。タロウは家族みんなのタロウなのだから。私だけのタロウじゃない。
 それに、受験で忙しいなんて言うけど、勉強にいそしんでいるお姉ちゃんはとんと見たことがない。大体、漫画を読んでいるか、今のように馬鹿面をしてTVを見ているかのどちらかだ。
 お姉ちゃんが、憎らしい。お姉ちゃんはいつもそうやって全てを適当に、自分の都合のいいように周りの世界を調節して楽に生きている。私だって楽に生きる権利はあるはずだ。こうやってコタツに埋まりながら松っちゃんと浜ちゃんを見てにやにやしていたいのだ。なんで私だけがこの真夜中、寒空に繰り出してタロウに奉仕しなければならないのだ。世の中間違っている。おそらくこれも小泉総理が悪いのだろう。
 散歩になど行きたくない。しかし、お父さんのあの嫌な怒鳴り声はもっと聞きたくない。
 私はとうとうタロウの散歩に行く決意をした。
「タロウ、散歩行くよ。あれ? タロウ?」
 タロウが見当たらない。ぐるりと首を回してタロウを探すけれども、あの可愛いタロウの姿がない。タロウや、タロウや、どこ行った。
「お姉ちゃん、タロウ、どこ行った?」
 お姉ちゃんは相変わらず半笑いを浮かべつつ、TV画面を見ながら、コタツの上を指差した。勿論、コタツの上にタロウが居るはずもない。私はコタツ布団をぴらっとめくって覗き込んだ。
「タロウ、ここに居たの〜?」
 タロウは、コタツの中にいた。うずくまって、ちっちゃくなって、そこにいた。
 なんだ、充分、幸せそうじゃないか。こいつはきっと散歩になど行きたくはないんじゃないのか。無理やり連れて行くのもどうかと思う。
 突然、コタツの向こう側が開かれて、お姉ちゃんの顔がぬっと出てきた。
「タロウ! 散歩! 散歩行くよ! モトコが連れて行ってくれるよ!」
 タロウはそれを聞くと、耳をピクンと動かして、それから弾けるような勢いでコタツから飛び出した。お姉ちゃん、余計なこと言わなくていいのに。コタツという楽園にいればタロウは幸せだったに違いないのに。そして私も幸せだったに違いないのに。
 タロウは、目をらんらんとさせて、私を見やったり、尻尾を振ってみたり、ちょこまかと走り回ってみたり、わんと言ってみたり、大変忙しそうである。これだけで充分な運動ではないかとも思える。しかし、一旦散歩に期待を膨らませたタロウを捨て置くのはあまりに酷だ。私はそんな残酷な人間にはなれない。そのくらい残酷になれればいくらか生きるのが楽になるのかもしれない。お姉ちゃんみたいに。
 私は渋々と、リードを箪笥から取り出して来て、嬉々として飛び跳ねるタロウを押さえ込み、首輪に取り付けた。
「行ってきまぁす」
 
 寒い。もう十二月だ。雪が降ってもおかしくない。しかも十一時を過ぎている。私みたいな高校一年生の魅惑的な女の子が外出していい時間じゃあない。いつ淫らな欲望に支配された変質者が躍り出てくるとも限らないではないか。お父さんは、私のことが心配じゃないのだろうか。
「タロウがいるから大丈夫だろう」なんて言うけど、こんな小っこい犬が何ほどのものだろう。大の男の手にかかったら一発でノックアウトされてしまうに違いない。あるいは敵前逃亡、私を見捨てて逃げるかもしれない。理性のない動物なんて、結局のところそんなものだろうな。
 タロウは、そんな私の不安な気持ちや繊細な乙女心なんてつゆ知らず、気ままに道端の名も知れぬ草の匂いを嗅ぎまわっている。タロウは、気楽で羨ましいな。悩みなんてないんだろうな。私は、犬に生まれればどんなに幸せだったのかな、なんて、どうしようもないことを考えたりして、タロウについて行く。
 空を見上げてみると、丸い月が、夜を少しでも明るくしようと、頑張って光っている。月の光よりも、この道端の街灯の冷たい光の方が、明るいなんて、おかしいな。でも、どうなんだろう、月の光って私、感じたことあるのだろうか。この街の街灯を全て消してしまったら、月の光が、本当に明るくてこの世界を照らしてるって、気付けるのかしら。
 タロウが、電柱を見つけてはおしっこを引っ掛けて回っている。なんだか滑稽だ。ナワバリなんて、室内犬のタロウには関係ないのにね。一気に出し切っちゃえばいいのに。
 タロウは、おしっこに飽きると、今度は、草むらの中に、飛び込んで行って、くるくる回ったかと思うと、中腰になってぷるぷる震えだした。大便である。散歩で最も嫌な瞬間である。どうせ草むらだし、拾わなくてもいいか、肥料になるし。と思って、私はこんもりとした大便をほったらかしにすることに決めた。
「ほら、タロウ、行くよ。早く来い」
 私はリードを引っ張って、早くこの場所から立ち去ろうとする。そうすれば私が大便をほったらかしにしたことなんて、神様にしかわからない。でも、私が死んで、閻魔さまの審判を受けるときに、この悪行を見せられたら、恥ずかしいなあ。
 大体町内を一周して、もうこの辺でいいのじゃないかなと思って、タロウに訊いてみた。
「ねえ、タロウ、もう帰ろうか?」
 タロウは無視している。何の反応もない。黙々と歩いている。
「異議なし、ってことだね、その沈黙は」
 私はタロウが同意したことにして、帰ることにした。
 帰り道。ふわっとした暖かい匂い、即席ラーメンの匂いが漂ってきた。夜食を作っている家があるらしい。どうやら左手の平凡な一軒家からその匂いは放出されているようだった。台所と思しき部屋と、二階の部屋の窓が、冷たい暗闇の中でぼんやりと光っている。
 私は、受験生の息子のために夜食をこしらえるお母さんの姿を想像した。
 お母さんが、ラーメンをお盆に載せて、こぼれないように、一歩一歩慎重にあるいて、息子の部屋に持っていくのを想像した。
 そうしたら、心がきゅうっと絞られるような感じがして、ふわふわした雪みたいなものが体中に広がって、染みわたっていった。冷たいけど、柔らかく満たされる私のからだ。なんだか、目がじわっと来て、視界がぼやけて、頭がじんじんと、脳みそが心地良く解けていくみたいな感覚。変な感じ。
 私は、なんだか、全てのものが、いとおしくてたまらなくなった。全ての人が、幸せになって欲しいと思った。私がたとえ誰かに憎まれたり、恨まれたとしても、それはきっと私が悪いのだ。その人は幸せになるべきなのだ。幸せになって欲しい。幸せになって欲しい。

 マンションに帰ってきた。タロウと一緒に、我が家に通じるドアへと向かう。
 タロウは私を引っ張るようにして、走る。私は、素敵な、私を心から愛してくれる、頼もしくて優しい、そんな男の人に手を引かれているような気がした。私は、素敵で優しい、そのうしろ姿に向かって、言った。
「タロウ、私、タロウに幸せになって欲しい。この世に生まれてよかったって、思って欲しい。私と会えてよかった、って思って欲しい」
 タロウは、相変わらず、私のことを無視して、目も合わせないで、とっとこ突っ走る。当たり前だ。私はいつも嫌々世話をしているのだから。嫌われていても仕方がない。
「私ね、タロウに会えて、よかった。タロウ、私、タロウに会えて幸せだよ」
 私の声は届かないかもしれない。私の気持ちは届かないかもしれない。けれども、届かなくてもいい、と思った。きっとみんな幸せになるんだ。なって欲しい。私は、幸せな気持ちで、これからきっと楽しい事が沢山あるはずの、幸せを生み出すはずの、我が家のとびらを開けた。
「ただいま〜!」


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