遺書

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 僕には、生きかたがわかりません。お父さん、お母さん、ごめんなさい。僕は、親不孝者でした。でも、これから僕が生きつづけていると、これまで以上の迷惑をかけてしまうので、僕は僕の存在を消します。最初から、なかったことにしてください。僕のことは、僕に関する記憶は、すべて消し去ってください。ああ、神様、おねがいします。お父さん、お母さんの記憶から、僕を消し去ってください。僕に関わったすべての人の記憶から、僕を消し去ってください。

 お父さん、今まで、僕のことを養ってくれてありがとうございました。お父さんが、僕のことを愛してくれているのは、切実に、伝わってきました。僕は、ほんとうに嬉しいのです。お父さんは僕を、愛してくれましたね。
 小学校二年生のときのことです。僕が、ガンダムの映画を見に行きたいと、泣いて、じたばたして、困らせたことがありましたね。お父さんは、そんな僕を見かねて、「映画、見に行こう」といって、自転車の荷台に僕を乗せて、連れて行ってくれましたね。でも、映画は、公開期間が終わってしまっていて、見ることができませんでした。僕は、映画館の前で、「見たい、見たいよ」って言って、また泣きわめきました。そのとき、お父さんは、ただ笑って、僕の頭を、よし、よし、撫でてくれました。僕は、そのときのことが忘れられません。僕はお父さんに申しわけがありません。お父さんが、僕を思いやってくれたり、優しくしてくれたことが、僕にはほんとうに嬉しかったんです。だけど僕は、お父さんに、気遣いをさせたり、迷惑をかけるだけで、ただ、それだけで、ほんとうに僕は、それだけで、お父さんに何もしてあげることができませんでした。僕は、お父さんのことを心から愛することができなかったんです。お父さんの為に、ほんとうに、お父さんのことを思って、何かをしてあげることができませんでした。僕は、お父さんの肩たたきをするときにも、それによって得られる小遣いのことばかり考えていました。僕は、お父さんをさえ、打算の愛でしか愛することができませんでした。一時たりとも、お父さんを、本当に愛してやることができませんでした。これから先、僕が生きていても、心の底からお父さんを愛することは、きっとできないでしょう。僕は、苦しいです。お父さんの、僕にたいする心の底からの愛情が、自然な愛情が、思いやりが、とっても有り難くて、有り難すぎて、僕にはもったいがなくて、涙があふれて、どうしようもなくなるのです。僕は、それにお返しをしてあげることが何一つできなくて、ほんとうにごめんなさい。

 お母さん。ああ、お母さん。とても若々しくて、瑞々しくて、綺麗だったお母さん。僕の自慢だったお母さん。今まで、ありがとうございました。僕は、いつもいつも、お母さんを困らせて心配をかけていました。でもこれからは、もう大丈夫です。僕は、いなくなります。もはや困ることも、心配することもありません。僕のために泣くようなことはありません。いつも「疲れた、疲れた」と言っているお母さんに、僕はいたわりの言葉ひとつかけてあげられませんでした。僕は、自分のことばかり考えていました。お母さんは僕のことを、いつも、いつも心配してくれていたのに。
 僕が小学生のときのことです。お母さん、覚えていますか? 遠足の前日に、お母さんは、遠足に持っていく三〇〇円ぶんのおやつを買ってきてくれましたね。覚えていますか?僕はそのとき、
「なんで勝手に買ってくるんだよ! おやつは自分で選んで買うんだから、いいんだよ! そんなの持っていかないよ」
 と言って、お母さんの買ってきてくれたおやつを拒絶しました。そんな僕にたいして、お母さんは、とても優しく笑って、でもちょっと寂しそうに、
「あらあら、そうなの、ごめんね。じゃあ、ほら、三〇〇円あげるから、買っておいで」
 と言いました。僕はそのときのことが、忘れられません。あのときのお母さんの、寂しげな微笑が、脳裏に焼きついて離れないんです。僕は、お母さんの優しさを踏みにじりました。僕はそのときのことを思い出すと、胸をかきむしりたくなる気持ちです。お母さん。お母さん。僕の大好きなお母さん。僕は、お母さんのことが大好きです。好きだから、死ぬんです。もう、これしかないんです。これが僕の、最初で最後の、お母さんにたいする心からの奉仕です。お母さん、これからはもう大丈夫です。何も心配することなく、ずっと綺麗で若くいて、明るく健康に、幸せに長生きしてください。

 そして、お兄ちゃん。僕の大好きなお兄ちゃん。ときにはケンカをしたこともあったけれど、それでも僕はお兄ちゃんが好きでした。お兄ちゃんは、意地悪だから、いつも僕のことをからかったり、憎まれ口を叩いたりしましたね。だけど僕はわかっていました。その言葉の裏には、とても暖かい愛情があるということを。わかっていたけど、やっぱり時々は、お兄ちゃんのことを憎らしく思ったこともあります。ごめんなさい。僕は、純粋に優しい人間になりたかったのですが、どこかにいつでも、醜い悪魔のような感情が存在しているのです。その感情に、今に僕は呑み込まれてしまう。そんな気がするのです。お兄ちゃんに、人に、いつか、憎悪の感情しか抱かなくなるのではないか。そんな不安にとらわれるのです。だから僕は、まだ純粋な気持ちが、心のどこか奥深くにでも、一欠けらでも残っているうちに、死ななければならないのです。
 お兄ちゃんは、いつか笑いながら、こんなことを言いましたね。
「夢を見たんだ。おかしな夢だったな。なぜか、俺は海に遊びにきていてね。お前も一緒にいたんだ。あれは、どこの海だったかな。それはわからないけど、とにかく海で、お前と二人で泳いでいたら、急に海が荒れてきて、ざんぶと大きな波をかぶって、お前が溺れてしまった。俺は慌てたよ。お前を助ける為に、荒れる海を、必死で泳いだ。そうしたら、けっきょく俺も溺れてしまった。そこで目が覚めたんだ。なんでお前なんかを助けに行ったんだろうな、俺は。ははは。馬鹿だよなあ。お前なんか助けにいかなけりゃあよかったよ」
 お兄ちゃんは、おどけて、笑い話をするみたいにして言っていたけど、そして僕もそれを笑って聞いていたけど、でも僕は、本当に、涙が出るほど嬉しかったんです。お兄ちゃんが、我が身をかえりみず、僕を助けようとしてくれたことが、たとえ夢でも、いや夢だからこそ、僕には嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。お兄ちゃんは、僕を愛してくれていました。でもね、ごめんなさい。僕は、お兄ちゃんを愛することができなかった。お兄ちゃんが僕を愛してくれるみたいに、無償に、そして純粋に愛することができなかった。ほんとうにごめんなさい。

 僕の大好きな友人。僕をいつも気遣ってくれて、いつも心配してくれていた友人。僕は、君に幸せになってほしい。幸せになってほしい。でも僕は、こんなことを言っているだけで、実のところは、自分だけの幸せを祈っていました。立派な大学に入学した。立派な企業に就職した。君が、満面の笑みで幸せそうに話しているのを見て、僕は嫉妬と憎しみを抱きました。大学になど落ちればいい。就職などできなければいい。もっともっと、落ちぶれればいい。それが僕の幸せだ。人が不幸になればなるほど、僕は幸せになる。僕はそう思っていました。それが、僕の心の泉の奥ふかくから、もっとも自然に湧き出てくる感情なのでした。表面的には、笑顔で、
「おめでとう。よかった。本当によかった。君には才能があるって、わかっていたよ。おめでとう。僕も心から嬉しい。さあ、お祝いだ。祝杯をあげよう」
 と言っていましたが、心の中は、今述べたとおり、嫉妬と憎しみであふれかえっていました。僕は、究極的と言ってもいいほどに、僕だけの幸福だけを祈っていたのです。祝杯をあげようだなんて、そんなものは、君の成功にかこつけて、ただ僕が酒を飲んで良い気分になりたいだけなのでした。
 僕の正体は、このように醜いものです。君は、僕に騙されています。僕を憎んでください。お願いですから、僕の忌まわしい偽善に彩られた仮面を愛するのはやめてください。それは、僕ではありません。僕は、申し訳がないのです。このように醜い僕にたいして君がほどこしてくれる優しさに、申し訳ないのです。だから僕は、僕の最後の良心のかけらが、まだ一粒でも残っているうちに、死ななければならない。そうすることで、僕の純潔を、少しでも君に示すことができる。ああ君が、これからもずっと幸せでありますように。

 最後に、ああ、僕の愛するあなたへ。あなたをひと目見たそのときから、僕はずっと、僕はあなたを、愛していました。好きでした。僕はあなたが好きでした。どうしようもないくらいに、好きでした。気が狂いそうなくらいに、好きでした。僕はあなたと、けっきょく、一度も話をすることができませんでしたね。あなたは、僕の存在に気がついていましたか? 僕はずっと、あなたを遠くから見つめていましたが、あなたは、僕がここにいることに、僕が生きていることに、あなたを想い焦がれていることに、気がついていましたか。いや、いいんです。気がつかなくても、いいのです。僕は満足でした。あなたを見つめているだけで、とても幸せでした。それ以上の幸せを望むのは、僕にはいけないことです。僕は、今まで書いてきたように、ひどい、醜い人間ですから、僕は、あなたを見つめているだけでいるのが、いちばんいいのです。
 僕は、昨日の晩、駅前の商店街で、あなたの姿を見ました。あなたは気付いていないでしょうが、僕はあなたとすれ違ったのです。あなたは、ほっそりと背が高い、とてもおしゃれでハンサムな男性と、手をつないで歩いていました。あなたは、その男性と、楽しそうに、幸せそうに、おしゃべりをしていました。その男性も、とても幸せそうに笑っていました。僕はその光景をみて、頭がガンガンと、壊れそうに痛くなり、胸がドキドキして、心臓が痛いほど脈打ち、しばらく息ができなくなりました。くらくらめまいがしました。酒が飲みたくなりました。僕は足がガクガク震えて立っていられないほどでしたが、あなたの姿を、あなたの、これまで見たことがなかった、これ以上ない素敵な笑顔を、心の底からの笑顔を、できるだけ長いあいだ見ていたかったので、あなたが僕とすれ違うその瞬間までずっと、あなたのことを見つめていました。
 僕は、コンビニで酒を買い、家に帰って、酒を呑みました。あなたの、あの恋人に見せた素敵な笑顔を思い浮かべて、酒を、酒を呑みました。あの笑顔は、あなたのあの笑顔は、僕のものではない。僕に対して向けられたものではない。僕に対して向けられることは決してない。それでも、とても素敵だった。脳の裏側に貼り付いて離れない。ああ、あの笑顔が、僕のものだったら。あの笑顔が、僕のものだったら。あなたの全てが、僕のものだったら。お酒をたくさん呑みました。涙が、僕の目からとめどなく流れて落ちました。この涙は、なんだろう。何によってこんなに溢れてくるのだろう。僕は、誰のために泣いているのだろう。あなたのため? あなたの恋人のため? それとも、僕のため?
 酒をいっぱい呑んだら、あなたが僕の前に現れました。テーブルを挟んで、僕の正面にあなたが座っていました。これは幻覚だ。酒を呑みすぎたから、僕は幻覚を見ている。それは僕にもわかっていました。それでも、幻覚とわかっていながら、僕は幻のあなたに話しかけました。生まれて初めて、あなたに話しかけました。
「僕は、あなたが、好きです。あなたは、僕が好きですか?」
 あなたは何も答えず、ただ、美しく笑いました。あの、あなたが駅前の商店街であなたの恋人に見せたときと同じ、心の底からの、愛する人にだけ見せる、素敵な、屈託のない笑顔。何の仮面もつけない、何の偽りも虚飾もない、生まれたままの、赤ちゃんが母親に見せるような、自然な笑顔。でも、それは幻だ。僕の見たものは、幻なんだ。僕の幻覚が作り上げた、偽物のあなただ。あなたは、僕の目の前にはいない。でも、僕は幸せでした。幻でも、幸せでした。幻だから、幸せでした。僕は、死のうと思いました。今このときがとっても幸せだから、死のうと思いました。僕は死にますが、幸せです、とても幸せです。僕の愛するあなた。僕が生涯で一度だけ、心のそこから、純粋に、好きになることができたあなた。僕は、あなたが、好きでした。どうか、どうか、幸せになってください。ずっと、笑顔でいてください。さようなら。僕は心の底から、あなたが好きでした。あなたが、好きでした。


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