「愛された男」 作者 ふちりん 長い間の気まずい沈黙を打ち破り、 「今日は楽しかったですね」 と、田島が云った。 「そうだね、楽しかったね」 と、中山が云った。そしてまた沈黙が二人を支配する。 深夜、人気の無い道を、田島と中山は歩いていた。二人は初対面だった。 二人には、榎本という共通の友人がいた。榎本の呼びかけで三人で飲もうという話になり、知り合ったのだった。その飲みの帰り、共通の友人、榎本と別れ、帰り道が同じ方向ということで、初対面の二人は並んで歩いていた。 永遠とも思える長い沈黙。途切れたままの会話。二人は、二人とも、あまり会話が得意なほうではなかった。そのうえ初対面ということもあり、二人の間にはぎこちない空気が流れていた。深夜の冷たい闇が、その空気をさらに寒々しく澱ませていた。 「ほんとに楽しかったですか?」 と、田島が云った。 「ほんとに楽しかったよ」 「ほんとですか? 本当のことを言ってください」 「だからほんとに楽しかったって」 「そうですか、それは良かった」 二人は目を合わせずに、前方に目を向けたままである。 「俺、いつも思うんだけど、榎本は気さくでいい奴だよなあ」 と、中山が沈黙を嫌うように、空虚な言葉を繋いだ。 「そうですね。僕もそう思います。榎本くんは、いい人ですよね」 田島は、うつろな目をして、マイルドセブンを一本取り出し、火をつけた。そしておもむろに煙を吸い込み、中山に向かって吐き出した。 「どうです、けむいですか?」 「ごほっ、当たり前だろう、けむい、やめろよ」 「やめませんよ、ほーら、ほーら」 「あんた、いったいどういうつもりだ? いい加減にしろ」 中山は煙をもうもうと吐き出す田島に詰め寄り、胸ぐらをつかんだ。 「なんです? 殴るんですか? 殴ればいいでしょう? 訴えますよ」 「なんなんだ、あんた? いきなり敵意むき出しにしやがって。そんなに俺が憎いのか? 俺が何か悪い事をしたのか?」 「……いえ、なにも。冗談ですよ、冗談、アメリカンジョーク、ブラックジョークと言ってもいいですかね、あなたも冗談くらいわかるでしょう、いい大人なんですから」 「……そうか、冗談か、すまなかった。……少々取り乱してしまったようだ」 中山は田島の襟元から手を離し、愛想笑いにも似た笑みを浮かべ、再び歩き出した。田島はタバコを投げ捨て、服のよれを正しながら、 「分かればいいんですよ、分かれば。こっちこそすみませんでしたね。ちょっと冗談が過ぎたようです」 二人は、線路沿いの道に出て、それに沿って歩いていく。 電車のごおごおという音が背後から迫ってきた。電車が二人のすぐ横を通り、轟音が二人の間を満たすと、田島は中山の顔を覗き込むようにして、ひどく歪んだ顔をして、 「お前は死ね! お前は死ね! お前は死ね!」と云った。 夜の冷たい闇を引き裂くように、轟音が鳴り響いていた。中山は言葉が聞き取れず、きょとんとしている。 電車が通り過ぎ、ごおごおという音は遠く小さくなっていった。そしてまた、 「お前は死ね!」田島は云った。 今度はハッキリと声が聞こえ、中山は驚いた顔をして、 「今何と云った?」 「お前は死ね! と云いました」 と、田島は面接官に対するように真摯に真面目な顔をして云った。 中山は、林檎のように顔を赤くして、ひどく怒った様子で、 「なんだと? あんたいったいどういうつもりだ? まさかそれも冗談だとは言うまいな?」 「冗談なんかじゃありませんよ。お前は死ね! 目障りです。死んでくれませんか」 「はぁ? だから何なんだよあんたは? 俺がなぜそんなに憎いのか、目障りなのか、まったく訳がわからない。俺が何かしたのか?」 「僕のほうが、あなたより愛されてるんですよ。愛されていなくてはならないんですよ」 「愛される? 誰に?」 「榎本くんは僕を愛しているんですよ、他の誰よりも僕を必要としているんですよ。あなたなんかよりずっと、僕のが価値のある人間なんですよ。そうでなくてはならないんですよ。だからあなたは死ぬべきなんですよ。死んでくれませんか」 中山は、肩をすくめて嘲るように笑って、 「榎本が? 愛してるだって? ははは、つまりホモなのかあんたは、田島君。だったら心配するな。俺にその気はないから、ご自由に榎本とよろしくやればいいさ」 「ホモ? 違いますね。僕は何よりも女性が好きな健全な性欲の持ち主ですよ。あまり侮辱しないでいただけますか。そういう愛じゃありません。愛ってそんな狭い言葉じゃありませんよね。とにかく、僕は榎本くんに愛されているんですよ、誰よりもね」 「――なるほどね、友人としての愛ってことか。でもちょっと待てよ。あんたが誰よりも愛されているのなら、何も俺が死ななければならない理由はないだろうよ」 「あるんですよ、それが。あなたは死ななければならない、今すぐ、この場で」 「どんな理由なんだ? 訳がわからない。あんた、気が触れてるのか? 酔っているんじゃないのか?」 田島は、卒業写真に写るときのような引きつった笑みを浮かべ、タガが外れたように、早口でまくし立てる。 「酔ってなどいませんよ。こう見えても酒は強いんです。気が触れてるわけでもありません。いいですか、あなたはここで今すぐ死んでください。あなたが居ると僕は非常に都合がわるいんです。あなたがこの先、いや今の時点でもそうかもしれない、榎本くんに最も愛される人間になるかもしれないんです。それはあってはならないことです。僕は彼にとって一番でなくてはならない。そうでなくては僕は耐えられない。僕の存在が無意味になってしまいます。居ても居なくても同じなんです。むしろ居ないほうがよくなってしまうんです。それはあってはならないんです。だからあなたは死んでください」 中山は、乞食を憐れむような、見下した同情の視線を田島に向けた。 「……あんた、そんなに自信がないのか? 自分自身に。あんたが、魅力のある人間なら自ずと愛されるようになるんじゃないのか? それに、愛されないと存在が無意味になるなんて、一体あんたはあんた自身として独立して存在することができないのか? そんなことはないだろう」 中山がそう云うと、田島は、ポケットからナイフを取り出し、中山の喉元に突きつけた。 「笑わせてくれますね。自信ですって? ある訳ないですよ。僕だけじゃない。誰だって本当には自信なんかある訳がないんです。あなたは自信があるんですか? あなたは魅力があるんですか? そう自分で言い切れますか? たとえあったとしても、あなた以上に魅力のある人なんて星の数ほどいますよ。あなただって虫けら同然に価値がないんですよ。あなたは誰にも愛されないで、誰からも無視されて、誰からも軽蔑されて、誰からも愛の対象から除外されて、それでも生きていけるっていうんですか? 僕は無理ですね。ええ無理ですよ。だからあなたは死ななければならないんですよ。死んでくださいよ」 中山は突然の田島の奇行に驚き、狼狽した。喉下に突きつけられたナイフを退かそうと、震える手で力なく田島の手を掴む。 「お、お、おい、ちょっと待て、本気かあんた? 冗談だろ? 冗談はここまでにしてくれよ。冗談にしても度が過ぎるってもんだぜ」 「二度も言わせないでください。冗談なんかじゃありませんよ。榎本くんの愛は僕だけのものです。僕だけのものです。僕だけを愛さなくてはならないんです。だから」 田島は、手に持ったナイフを強く押し出し、中山の喉に深く突きたてた。夜の闇と混ざったどす黒い血が田島の目の前に噴出された。中山はゴボゴボとなにやら喋りながら仰向けに倒れた。 「お前は死ね! お前は死ね! お前は死ね!」 田島は中山に覆いかぶさり、喉元を抉るようにして何度も何度もナイフで切り裂いた。グチャッグチャッという音が冷たい静かな夜に響き渡った。 と、そのとき、田島の携帯の、着信メロディーが鳴った。宇多田ヒカルの『Can You Keep A Secret?』だ。ナイフを中山の喉に刺したまま、田島は立ち上がり、メロディーに沿って、 「近づきたいよ、君の理想に」 歌詞を口ずさみながら、携帯を取り出した。 「もしもし」 「おう田島、もう家に着いたか?」 「ああ、榎本くん、まだ歩いてるところだよ」 「そうか、まだ帰ってないのか。いや、それにしても今日は旨い酒が飲めたな。どうだ、中山っていいやつだろ? お前とも気が合いそうだな。また三人で飲もうぜ」 「中山君は死んだよ。僕が今さっき殺したところなんだ」 「は? なんだって? 今なんて――」 田島は電話を切り、携帯をポケットにしまった。初対面の人と挨拶をするときのような、ぎこちない、奇妙な、作り物めいた笑みを浮かべ、中山の死体を後に、歩き出す。 「僕は、愛されている。誰よりも」 |
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